*はじめに

 インドネシアには、ジャワ更紗(バティック)と呼ばれるロウ防染の技法を駆使した布がある。模様の線描きから始まり、色を重ねていく度にロウ防染を繰り返し、模様を染め上げていく布で、その細微な技法は世界でも類がない。そのためバティックという名がロウ防染を使った模様染の代名詞として、共通語となり世界中で使用されている。

 私がそのジャワ更紗修得のため留学生としてインドネシアに渡ったのが1973年、帰国後もジャワ更紗制作に年に数回インドネシアを訪れるという生活を繰り返し、今日まで作家活動を続けている。

 この約35年の間にジャワ更紗を取りまく環境の変化は激しく、伝統的なロウ防染の更紗から更紗柄のプリント柄が流通の9割を占めるようになった。特に私が関わってきた、伝統ジャワ更紗の中心地ソロ (スラカルタ)は、衰退が激しく伝統工法の工房は90年代には次々に廃業に追い込まれていった。

  その危機感からジャワ更紗の資料を残そうと1991年、1993年にトヨタ財団より〈日本、インドネシアの共同研究‐ジャワ更紗の歴史、意匠、技術に関する総合調査〉の助成を受けた。この時の調査で各地の伝統ジャワ更紗の地域差、工房の意識の違いを深く理解することができた。その各地の有や工房も時代の流れとともに移り変わっている。特にソロは私の留学時代からの制作地であるため関わりの深い地であり、ジャワ更紗の制作技術、心構えなど、バティック制作の基本を学んだ場所だ。そのため私の更紗はソロの伝統バティックの上に立っており、そこを中心として展開していった。私がインドネシアに渡った73年は、植物染料を使用した手書きの伝統バティックが少なくなってきたものの、まだ多く制作されておりそれらを着用する人もよく見かけた。

*ソロの衰退の原因

 ソロのジャワ更紗工房が壊滅したのに対し、チレボンやプカロンガンをはじめとする北岸系伝統工房は今も生き残っている。ここからソロのバティックが、壊滅した理由を北岸系バティックと比較しながら書いていこう。

 ジャワ更紗は宮廷文化の一環として儀式などと結び付き、伝統文様が発達していった。王宮のあったソロやジョクジャカルタでは王家に対する畏敬の念が強く、王宮文様に類似した布を着用することをステータスとした。このような背景から、ソロでは伝統のバティックに対する強い誇りが存在し制作に対するプライドも高いため、長らく変化をよしとしなかった。それに対し港町である北岸の町は異なる文化との交流が盛んで、新しい物事を取り入れアレンジすることに優れている。技法面も、ソロはジャワ古来の茶と紺二色で変化を出す染めを守ってきたのに対し、北岸はインド更紗からの影響も強く赤、黄、青のグラデーションを利用した多色染を早くから扱っていた。

 また18世紀よりインドネシアはオランダの支配下に入り、19世紀にはジャワ島にヨーロッパ系工房主が登場して、物語や花などこれまでの伝統にないモチーフを柄に使い始めた。またオランダや中国系裕福層に対しての商売は新たな販売ルートを広げることになった。しかし有力な王家があったソロやジョクジャカルタでは自治権を認められていたために、ジャワ人社会が守られておりこの変化を経験しなかった。

*ソロバティックの盛衰の歴史

 ソロは一大バティックの生産地であり、1920−1930,1950−1960、の最盛期にはインドネシア国内は基より、ヨーロッパやアジアヘ大量のジャワ更紗を輸出した。この時のバティックはバティック・チャップと呼ばれる布だ。バティックはロウ描きの技法の違いで、大きく三つに分けられる。一つ目はバティック・トゥリスといいチャンチンと呼ばれる特殊な道具を用いて手で模様を描き込んでいく技法。二つ目はバティック・チャップ、銅版のスタンプを用いてロウを押す技法。最後にロウを使用せず、更紗柄を染料で直接布に染めるバティック・プリント。バティック・プリントは更紗柄のプリント布であり、バティックではないと言われる事も多い。これら三つの技法を組み合わせたコンビネーション・バティックというものもある。バティック・トゥリスと言っても極めて細密なものから大雑把なものまであるが、103cm幅×約250cmの布にロウで模様を描くには丁寧なものは一枚数カ月の時間がかかる。一方スタンプ技法では、一日約10〜20枚の布にロウを置くことができる。したがってバティック・チャップの発達は、安価なバティックの大量生産が可能になった。それにより王宮関係者や富裕層のステータスシンボルであったバティックが一般の人々、さらに農村部やジャワ島外で働く出稼ぎのジャワ人たちの衣料として普及していった。それはジャワ人地域全体で興った流行であり、バティックを作れば作るだけ売れるというような状態を作った。そしてソロではラウィヤンという地域に数百人の工人を抱える大工房が生まれ富裕層が出現した。

 この富裕層の豊富な資金はインドネシア独立戦争に大いに活用され、そのことがソロの工房主の誇りとなっている。商品として売りに出すジャワ更紗は大量生産の安価なチャップであったが、白分たちのためには精緻な手間を借しまない手書きのバティック・トゥリスを作っていた。それらは家族、縁者等の価値の分かる者たちの間でのみ流通し、財産として扱われていた。その模様は伝統模様に基づいてはいるか、その中に組み合わせた動植物などは同じ模様が見られないほど多種多様である。工房主同士は集まる機会が多く、より良い染色・ロウ描き技術・模様のアレンジを競い合い、比べ、それを楽しむことで発展していった。

 私が渡った73年は伝統衣装を着る人が少なくなり始め、その需要が著しく減少している最中だった。従来の茶と紺による伝統色の布は日本の着物のように冠婚葬祭、入学式や卒業式といった機会に着られるのみとなってきていた。

 73年にはソロでは中国系資本の大工房がバティック・プリントを生産しはじめ、洋服、インテリア用に商品化しはじめていた。一部のソロの工房主たちもその模倣をしはじめるが、手作業のシルクスクリーン・プリントで模様も表のみであり色落ちも激しかった。そのためプリントに移行する工場主は少なく、バティック・チャップの需要が主であった。

 80年代に入ると日本などのプリント技術を取り入れた事によりバティック・プリントの品質が大きく向上した。ソロでは中国系資本の二大工房であるバティック・クリスとバティック・スマル、そしてジャワ系工房のバティック・ダナルハディがこの技術をいち早く取り入れ急成長により企業化し、大工場となっていった。これらの工場は雑誌やテレビに広告を載せ、インドネシア全土に直営店を出していく戦略をとった。 プリントもチャップと同じく安価な大量生産に適したバティックだが、プリント用のスクリーンを作るのはチャップの鋼板スタンプを作るよりも容易で安く作れるため、新しい模様を取り入れるのに適していた。やがてプリント技術が向上し、チャップに見劣りしなくなった。バティック・チャップは銅板スタンプを作る手間や技術から新しいスタンプを中々作れずスタンプを流用することが多かった。その結果、似た模様の商品が多く飽きられていった。このためソロの殆どのチャップエ房はプリントに移行した。

 高級路線のバティック・トゥリスは購買層が違うためにまだまだ多く生き残っていた。しかしこれらの工房主たちは特にプライドが高く流行に対応しなかった事と、深刻な後継者不足のために、80年代も中頃になると衰退していった。 90年代にはバティック・プリントの価格競争によって、潰れるプリント工房が相次ぎ、三大工場を除いたほとんどの工房が廃業または吸収されてしまった。こうしてソロの伝統バティックは壊滅状態になってしまったが、ソロの技を覚えている職人たちが新しい工房主の下で、非常に少数ではあるがソロ伝統バティックを制作している。

 近年伝統工芸が見直され、ジャワ更紗を着る人達も増え始めた。このソロのバティックが今の時代に受け入れられる新しい伝統として生まれ変われるように私は活動している。

青淵 8月号(第714号) 平成20年9月1日(財)渋沢栄一記念財団発行 掲載分

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